※価値観の話なので、読みたくない方は注意。
長く静かにただ考えに集中して、自身に問い続けた。
自己分析の基準を自己分析。
客観的に考えているようで実は、自分の感情が自分に都合の良い考えを脳にさせているだけだったと今更気付く。
そこにあったのはほぼ全てが自己愛。
後で気付くというタイプの、先人と自分と他人の歴史を大事にしない側の価値の無い人間だ。
こんな自己分析すらできない人間と、少し凝ったNPCとの違いはなんだろうか。
自己愛によって自分に甘く、他に甘えてすがることは足手まといで迷惑なだけで、他を巻き込むべきでない。
そうしなければ生きていけないのならば、それは自分の力で生きてない。
独りで頑張れという話ではない。自分や他人や世界のためを思うなら自分の能力を磨きあげ自立する必要がある。
自立とは、
他にすがらずとも自力で生きて活ける能力を持ってること。
自立の証明とは、脳内の自己満足でなく自己完結もせず、自他共に世界に客観的に評価されることで初めて証明となる。
自立したつもりで他人と歩むのは自信満々に樹海に迷い込んで巻き添え心中するような迷惑千万で足手まといなNPCだ。
つまり自立するためには、自身を世界へ表現し共感され反感されて確固たる能力に磨きあげていくことが不可欠。
ところで、アプリ開発以外の用途ではほぼ凍結状態にあったmixiアカウントの利用を開始した。
(というか、そんなんじゃPCアプリ掲載の条件(アプリ利用者10人以上)が厳しいという話だが。)
自立などと偉そうに言うものの、正直にいうとmixiを始めた理由は自立目的でなくただぐるぐると思考する独りの世界から逃げたかっただけの構ってちゃんな小物精神だった。
独りよりは何でもいいから世界へ表現することでいくらか気が紛れた。
今の心理状態のせいかもしれないが、人間は世界から孤立して独りで生きていけるかというと、それはおそらく無理だろうという憶測をしている。
自立したとしても、孤立が続けばそのうち現在の自分が自立しているという証明も崩れる。
結論としては、「自立=他にすがらずとも自力で生きて活ける能力を持つ」ためには、すがらずに交流し己を高め合える良き他人が多く必要だということだ。
もちろん交流することで知らず知らずに呑まれ流されるようでは自立と言わない。
そして自立を阻害する「甘え」の思考になっていないか、
感情が思考を麻痺させ自己愛ではないと言い張りつつも他に自己愛を押し付け他にすがり他に依存していないか、
常に自身に問い続ける必要がある。
人間の心は脆く弱いからこそ、心が甘えることを求める。
弱くてもいいのだ。弱いのは仕様だから仕方ない。ただ甘えた人間は迷惑な足手まといになるから、甘えたいならば、真に自立し、継続できてから、そのあとで初めていくらでも甘えるべきなのだ。
それが出来れば苦労しないという話かもしれないが、
そう思ってる時点で他に甘え足手まといを押し付ける「自己愛だけの自立してない甘え」である。
少し脱線するが、
自立したあと甘える場合、甘えという表現ではなく心の開放とでも呼びたいが、それでもこれだけだと他者への愛ではなく自己愛である。
自立すれば自己愛が全て他者への愛になる、という話ではない。
以上、自己分析。
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